なぜ、淀君を
豊臣秀吉という人は
人望という、人間の綺羅の部分を
きわめて錬金した人で、
また、そうでなければ
卑賤の身分から天下人として輝くのは
成し難かった。
没後、秀吉好きの武将たちが
豊臣家に味方して
大阪城の世子 : 秀頼の元に参じた。
母は、淀君で、彼女は
織田信長の姪にあたる。
大阪という商都も、
秀吉の治世の栄華を
あざやかに記憶してした。
堺の貿易は、
街を富ませ、国中に黄金をもたらした。
後の、徳川幕府は
世界を遮断したため
堺の街からは
火が消えたようになったという。
「太閤はんの、世にもどりたい」
大阪において
家康の、陰険な策謀から
滲みでた不人気ぶりは
相当なものに違いない。
秀吉のもつ天性の明るさ
金の輝きは、
家康の影を漆黒に染め上げた。
人は、明るい方にあつまる。
が、大阪の陣で
豊臣家は地球上から消滅した。
多くの、史観や研究では
豊臣は勝てたのではないか、
では、負けた理由は何だったのか、
戦術か、戦略か、
真田幸村が、大野修理が、と
これまで、物語に割かれた稿数は
一冬の雪では足りない。
ただ、平時にも乱時にも
人は、あまりにも単純なことほど
考えが及ばないらしい。
主観は、俯瞰をうばう。
要因の表現は、一行で事足りる。
なぜ、淀君を殺さなかったのか。
母上様から
病的な命令がくだる度、
秀頼も、諸将も身動きがとれず
結果、四万人以上を道連れに
豊臣家は滅亡した。
家康は
茶臼山で
茶を飲んでいたという。